文化・芸術

2019年5月 8日 (水)

日本文化のすごさを自画自賛する番組群

日本の伝統技術や料理などの現場を見せて外国人を驚かせるという企画モノが多い。元は「YOUは何しに日本へ」が火付け役なのだが、外国人に驚かれたり感心されたりすれば、改めて日本人自身も「日本発見」という気分になれる。外国人を映し鏡にして、自分自身を客観的に観察するという意味では、本来重要な番組群である。ただし、渡航や滞在費用丸抱えで面倒を見ているので、呼ばれた外国人も悪い気はせず、コメントも大げさになるのは当然。出だしから上げ底コメントになる傾向がある。従って、テレビで流れているコメントやリアクションを鵜呑みにして、「日本ってすごいね~~」と自己満足するのは早合点である。基本的に大幅に割り引いて判断しなければならない。個別の番組の論評はしないが、慶がこれら一連の番組を見ていて共通して感じることが2点ある。
1点目は「国によって感じ方が違う」ということだ。例えばアメリカ人、スペイン人、イタリア人などは、素直に喜んでリアクションもオーバーであり、番組側としてはとても頼もしい。一方で、イギリス人、フランス人、ドイツ人は苦虫を潰したような顔でコメントする傾向があり、特にイギリス人とフランス人は自国が一番と勘違いしている筋の悪い人種なので、「俺の国ではこんなことはしない」と突き放すコメントも多い。要するに、目の前の事実関係を直視してどうのこうのではなく、単純に国民性がリアクションに出ているだけの話なのである。中国人はほとんど出てこないが、もし中国人を起用すると反日丸出しでクソミソ罵倒するから(ちなみに韓国人は日本人に取り囲まれると反日が一瞬で親日に豹変する)、前向きのコメントは出てこない。だから、正直番組側が提示するファクトに対するリアクションは国民性に左右されているだけで、あまり喋っていること自体に深い意味はないように思う。当たり前と言えば当たり前だが、これが意外と見落としがちなものである。
2点目は「日本人が親切すぎる」ということだ。外国人がわずか1日か2日滞在したただけで打ち解けてしまい、お別れで泣いてしまう。番組としてはとてもほっこりするおいしい映像が撮れて良いのだが、外人など個人主義者で、別に旅先に懇ろになったからと言って、1ヶ月もすればすっかり忘れ去ってしまう程度のものである。この日本人の親切心は、ある意味で異常かもしれない。また料理や工芸品などの現場についても、あっさり裏技を教えすぎていないだろうか?同じ日本人の同業者には、拷問されても教えないようなレシピや裏技をあっさり見せているような気がする。相手が日本人同業者か外人かに関係なく、秘匿すべきモノは秘匿しないとおかしい。いや、できれば外国人には教えず、日本人にだけ教えて欲しいものだ。そこは徹底して欲しい。
いずれにしても、高齢化社会に突入している日本では、いろんな局面で伝統的な文化が失われつつある。文化は人から人にしか伝承できない。ならば、外国人でそれを真剣に理解して伝承できる人材がいれば、どんどん受け入れて同化させて行くことも選択肢の一つである。しかし、そもそも日本人自身が日本人の伝統や文化に向き合わないことが最大の罪なので、改めて伝統文化の重要性や人材育成については常日頃から考えて欲しい。

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2013年2月28日 (木)

意外なところで活躍する日本人(田崎真也ASI会長)

慶にとって、酒と言えばワインである。ビール、日本酒、焼酎、ウイスキーにワイン。飲んだ酒の量は星の数ほどだが、消去法によって、最終的にはワインに落ち着いた。酒は適度に飲めば薬に間違いないが、飲み過ぎると身も心も滅ぼす。まさに適量が難しいのである。だいたい酔うと適量が際限なく上がっていく。どうしても覚醒・麻痺するから。
一番ダメのは日本酒。飲みやすいので、グビグビ行ける。結果として、意識不明、朝起きたら俺は一体ここで何をしているのか、しかし頭痛と吐き気で仕事にならん、そういう体験が数知れない。焼酎は酔いも早いが、冷めるのも早い。しかし、アルコール度数が高いから、やはり悪酔いはする。ウイスキーは体を破滅させるための酒である。これは飲まないに限る。ビールは水感覚で飲めてアルコール度数も低く、酒としては健康的であるが、飲み過ぎると炭酸で胃がやられる。また基本がウイスキーと同じ成分であるから、肝臓への負担が結構あり、目覚めが極めて悪い。
ワインは外国に行くと、ほぼこれがメインの酒として出てくる。日本人には馴染みの少ない酒なので、最初は渋々飲んでいた。好きではなかったが、経験を重ねるほどに、これが実に含蓄のある酒であることを悟る。香り高く、アルコール度数は適量、そして独特の渋みがあって、グビグビは飲めない。結果的にチビチビ飲むから、体に対する負担は最小限である。そして、目覚めが素晴らしい。日本人は輸入ブドウ果汁を低発酵させた甘い安物ワインしか知らないから、日本酒のようにグビグビ飲んで悪い酔いする人が多い。そうすると、「ワインは悪酔いする」という間違った認識を示す人が多いが、本物のワインはクセがあってグビグビとは飲めない。またワインのアルコール度数(10~12%)というのは、丁度喉や胃粘膜を壊してしまうギリギリの線以下にあるのである。
ところで、西洋にはワインのテイスティングをして、客の要望に応じたワインの品目や料理のチョイスを指南する専門職がある。ソムリエだ。日本風に言うと、聞き酒職人である。もちろん、日本にそんな職業は存在しない。酒の善し悪しやどの料理にあうかなど、個人の責任で判断するものであって、アカの他人の指図は受けない、というのがアジアの原則である。それも一理あるが、エジプト王朝の時代から愛飲し、ワインに対する思い入れがどこまでも深い西欧社会では、ソムリエはリスペクトされるべき職業である。日本人にはとうてい分からない世界である。
このソムリエの最高峰を認定する組織として、「国際ソムリエ協会 Association de la Sommellerie Internationale」という由緒ある団体がある。毎年コンクールを実施し、世界最高峰のソムリエの認定を行っている。とても格の高いコンクールである。実はこのコンクールで優勝した栄誉有るソムリエの中に、ワイン後進国である日本から、無名のソムリエが輝いたことがある。ご存じ田崎真也氏である。ワインの歴史が数千年もある西欧社会から優勝者が選ばれるのが当然とされるなか、ワインの歴史がほとんどない日本から優勝者が選ばれたのは快挙である。しかも、しかもである。田崎氏は、現在のこの国際ソムリエ協会の会長にも就任している。名実共に、世界のソムリエ界の最高峰に君臨している訳だ。
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一体日本のどれだけの人たちが、このことの重要性を認識しているのだろうか。ワインの目利き、味利きは西欧社会の食文化、歴史の核心である。そこに日本人が入り込むことは、とても難しいことである。例えて言えば、歌舞伎界のトップに、青い目をした外人が座るのと同じである。田崎氏がそれをやってのけているということは、間違いなく世界じゅうのソムリエが、その実力を認めているからに相違ない。田崎氏はとても気さくな方で、ちっとも居丈高な印象のないソムリエである。そういう世界の檜舞台で活躍する日本人を、我々は誇りに思い、最大限の尊敬の眼差しで支えて行くべきではなかろうか。

2012年9月15日 (土)

お米が続々と実ってきた

9月に入って朝晩ちょっとだが秋風が吹き始めた。今年も田んぼが黄金色に色づき、いよいよ実りの秋である。真夏の日差しでコツコツ栄養分を溜めてきたお米が、枯れる前に栄養分をどんどんと実に送り込んでいる。日に日に米粒が大きくなり、稲穂がだらんと頭を垂れるのを見ていると、自分で栽培していないのに収穫の喜びがこみ上げてくる。
慶もイベントなどで、田植えも、雑草取りも、稲刈りも、全部手作業でやったことがある。一番大変なのは田植えだ。足がぬかるむし、腰をかがめたままで、長時間の作業となる。適当にやると列が乱れ、後でコンバインで刈るときに支障となる。出だしが悪いと後に尾を引くから、最初が実に肝心である。
この田植えの後に、稲は他の植物にはない、ウルトラ芸を披露してくれる。それは「分げつ」だ。田植えをしたことのない人には分からないかもしれないが、田植えをする時には、苗を2~5本ぐらい植え込む。しかし、できあがりの稲刈りの時には、これが50本以上の束になっている。すなわち、増えているのである。朝顔の種を1粒植えて1本芽が出てきても、それはいつまで経っても1株のままだ。キュウリもトマトも、植木も、すべて最初に1本ならその後もずっと1本のまま。しかし、稲は1本が20本まで増えるのである。この株分かれを分げつと呼んでいる。これこそ、あらゆる穀物の中で、稲が飛び抜けて優れた能力なのである。小麦もトウモロコシも大豆もこんなウルトラCはできない。植えたばかりの苗の弱々しさが、4ヶ月も経過すると株と株の間が全く見えなくなるぐらい、稲の株でワサワサと覆われる。すごい成長力である。まさに稲さまさまである。
よく田舎の新聞などを見ると、小学生を田んぼに連れて行って田植えをやらせている記事が出ているが、この分げつのすごさを実感してもらわらないと稲のすごさは分からない。パンやラーメンの原料である小麦とどこが違うのか納得するためには、学校の校庭につまらないビオトープなどを作るより、ミニ水田を作って、日々の変化を体験させるべきではなかろうか。

Inaho

2011年12月22日 (木)

忘年会・クリスマス・大晦日....

師走も後半。9~11月が特にイベントもなく淡々と過ぎて、12月に入ると世間は一気に忘年会、クリスマス、大晦日と賑やかになる。まあボーナスが出るシーズンで金回りが良くなる時期なので、盛り上がらない訳には行かないのだが、永年サラリーマンをやっていると、「これって必要?」と思うことも多くなってきた。
まずは忘年会。まあその必要性を否定するつもりはない。やっぱり暦の変わり目なので、その年の総括は必要だ。しかし、忘年会でその年の総括をしていると感じることはまずない。職場で主催する場合は、冒頭にボスのひと言の中に今年一年の「我が社の出来事」が凝集されているが、5分もみたない挨拶で、だいたいヒラ社員はまともに聞いておらず、「だから何なの?」という感じでの暴飲暴食に陥ってしまうことがほとんどだ。そもそも会社組織は四半期決算で、特に3月期の決算に向けて忙しくなるので、事実上の年末は年度末、すなわち3月なのである。しかしこの3月は総括というより、送別会にすり替わってしまっている。ならば12月の忘年会は、単なる暦の切り替えに合わせて騒いでいるに過ぎないのではないか?もっと簡素化しても良さそうな気がする。会社の決算が3月に出るのなら、ボーナスもそこに合わせて支給した方が、異動やら入学・卒業と何かとご入り用なので、世間的には説明がつきそうなものだ。これは会社組織が立ち上がる前は確かに12月末が事実上の決算だったので仕方ない面はあるが、名残は名残らしく、さらっとやってほしいものである。
次にクリスマス。これは正直良くないと思う。一体誰に対して祝っているのか分っているのだろうか?これはキリスト教の行事であって、日本にはキリスト教の信者はわずかに0.3%しかいないので、騒いでいる人のほとんどは仏教徒だ。異教徒が騒ぐのはかなり問題である。宗教という極めて保守性の強いイベントなので、仏教徒がキリスト教のイベントを国を挙げて盛り上がるのはどう考えてもまずい。しかし、日本人はあまり深刻に考えていない。宗教の本質とその形式美を切り離して考えることができる器用な日本人は何も不思議には思っていないが、世界基準で考えると、思い切り笑いものになっている事実が厳然としてある。宗教は基本的に同時に2つは信奉できない。だから、クリスマスには冷酷になるか、あるいはイベントに賛同する人はキリスト教に改宗すべきである。頭が固いと言われるかもしれないが、「周りがやっているから別に」という意識は、「赤信号、皆で渡れば恐くない」「無理が通れば道理が引っ込む」の論理である。やるならアマテラスの誕生日か、あるいはお釈迦様の誕生日にやった方が説明はしやすい。信教の自由があるから、ややこしければキリスト教に改宗しても構わない。ここを曖昧にしておくと、日本人の哲学感が地に堕ちてしまう。
それに比すれば、大晦日は厳かだ。これこそれが忘年会そのものである。慶も実家に帰省した時に、子供を連れて除夜の鐘を突きに行ったことが何度かある。皆お堂の前にずらりと並び、坊さんからひと言頂きながらその一年の不浄を反省しつつ、厳かに鐘を突く。鐘は集落全体に響き渡る。檀家が寒い真夜中に暖かいおそばを用意していて、鐘を突いた後にはおそばを頂き、熱燗をすすりながら、ご近所の皆様とその一年について立ち話で盛り上がる。子供はぐったり寝てしまっているが、そうこうしている間に新年を迎える。これこそが「ザ・年末年始」である。

Joyanokane

東京や大阪はおろか、ほとんどの県庁所在地以上ではこうした伝統的な年末年始の風景は廃れてしまい、晴れ着を着て神社参りぐらいになってしまっている。年末はクリスマス、正月は神社に行って、誰が祀ってあるかも考えることなく、柏手を打って小銭を放り込んで返ってくるだけの年始は正直寂しい。
そうブツブツ言いながら、結局今年も世間と同じパターンに陥りそうな感じです

2011年10月10日 (月)

写楽の正体判明

東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく=以下「写楽」)については、日本で最も有名で、かつ色んなところでその絵がコピーされている浮世絵師です。昔からたった10ヶ月間しか活動記録がなく、その出生も何も不明で謎の浮世絵師として語り継がれていました。慶もそこまでは知っていたのですが、どうも最近正体が判明したようです。

結論は阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ)とのこと。元々江戸時代の記録にそういう記述があったのですが、従来からあれほどのすばらしい絵を一介の能役者が付け焼き刃で書けるものか、それなりの人間でないと無理だと言われていた訳です。しかし、最終的にはそれは覆された。専門家がアドバルーンで上げる仮説研究ほどアテにならないということでしょう。

写楽の「東洲斎」を「とう」「しゅう」「さい」と分解して並べ替えると、「さい」「とう」「じゅう」+「ろべい」となり、写楽当人の本名に一致する。なんともしゃれた謎かけ、ペンネームなのでしょうか。

写楽は10ヶ月の間に147枚の版画を描いているので、2日に1枚のペースというすさまじい労力で描いている計算となります。これは何かに取り憑かれたようなペースです。しかしその絵を見ると、4期に分かれるとのこと(NHKの特集番組による)。背景を一切消し、上半身のアップの中に役者の個性やその背景に見える人間の悲哀までも表現した最高傑作はこの第1期に集中しています。それ以降は背景が加わり、立ち姿となり、最後は没個性な絵となって10ヶ月で筆を折ってしまいました。

Syaraku_2

写楽の絵を見た当時の江戸人の評価はひどく、「グロすぎる」「これは浮世絵のスタイルではない」と甚だ不評だった。だから写楽の絵は短期間で丸められ、10ヶ月で筆を折った。本来写楽は本当に絵が好きで好きで溜まらなく、その中に自分の強い思いを重ねて、むさぼるように絵を描いていたうようです。「好きこそものの上手なれ」。間違いなく自分に忠実で、何ものにも囚われない天才画家と言えます。

それにしても情けないのは、日本人の浮世絵に対する態度。写楽をはじめとした浮世絵のほとんどは明治以降にほとんど国外に流出してしまいました。写楽の没後100年目に、その個性的な絵がヨーロッパで注目される。さらにそれから100年してから、外国での評判を受けてようやく日本で写楽が評価されるようになったというていたらくである。評判の逆輸入とはこのことです。日本人は型の文化は分かっても、ボーダレスな天才人の提供する先進的な文化は全く理解できない。人から言われて初めて「ああ、そうなんだ」と理解する巨視性のなさ。それはさておき、江戸末期に能役者という本業とは異なる世界に存在しながら、その内部にフツフツとわき出る絵への捨てがたい思い、個性を10ヶ月間だけ爆発させた斎藤という人物が日本に居て、その後何百年も世界中の人々を魅了したという事実は誇らしいものです。

浮世絵に近いモノを現代で捜すと、ハリウッド映画のパンフレットです。JAWSならサメがバックりと口を開けている背景に、驚くように寄り添う主人公2人がインポーズされた絵、ETなら満月を背景に自転車が空中を飛び、そこにタイトルがインポーズされるなど。要するにストーリーの山場を象徴的に切り取った映像が必要なのである。だから、ただ役者が睨みを利かすとか、何かを脅し取ろうとかするシーンの表情と上半身だけを切り取っても、それが歌舞伎のワンシーンで何を意味するのかは当時の江戸人には必ずしも伝わらない。写楽はストーリーに惚れて描いたのではなく、役者の躍動する表情の非日常性をことさら表現したかったのである。それは日常性の反対を描くことで、現実のアンニュイな部分から逃避したかったのではないでしょうか。これこそ、写楽の絵が持つ時代を超えた普遍性そのものであり、現代人の心に訴えかける表現方法であるという気がします。形式化された江戸人にはとても理解できない、高等な表現方法だったのである。

K-POPに凌駕されている現代日本人も、もう少し主体性と先進性を持ち得た価値観を研ぎ澄ます時期に来ているような気がしてきました。もしあなたの回りに「ちょっと変?」な人が居たら、悪い噂をたてて排除するのではなく、できるだけ大切にしたいですね。