学問・資格

2021年9月23日 (木)

エッセンシャルワーカーって訳せないな

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新型コロナウイルスことSARS-CoV-2がパンデミックを引き起こして以来、様々な外来語が押し寄せて来た。そのほとんどは日本語に訳することも可能だが、今回のように、世界同時に一気にコトが進むとそのままカタカナ表記でメディアやネットに広がることになってしまう。いくつか例示してみた。
・ロックダウン
・ソーシャルディスタンス
・クラスター
・オーバーシュート
・エッセンシャルワーカー
・パンデミック
・テレワーク
こうした風潮にワクチン接種担当大臣も、「クラスター=集団感染、オーバーシュート =感染爆発、ロックダウン=都市封鎖ではダメなのか」と提言したほどである。しかし、実態としてはそのままカタカナで使用されている。その背景は、日本語で微妙なニュアンスまで含めて正確に言い換える言葉が見つからないためだろう。
例えば、オーバーシュートという言葉は「行き過ぎる」「度を越す」などの意味があり、何かが過熱・集中しすぎて手が付けられない状態になることを意味する。金融証券用語から派生して使われるようになったので、わかりやすい日本語が存在しないのだ。そのまま意訳すれば、「感染爆発」、「制御不能状態」ということになるが、パンデミックとの違いが良く分からない。良い日本語が見当たらない。
このリストの中でも、一番困るのがエッセンシャルワーカーである。直訳すると「必要不可欠な労働者」と言う表現だが漠としてイメージがわかない。ロックダウンが行われている中で、社会活動を最小必要限回すのに、どうしても必要な仕事(労働者)と言う意味で使われているのだろう。警官などの公務員、病院や消防、学校、スーパー販売員や清掃業者などを意味しているようだ。ただ、いくらロックダウンとは言え、基本的に労働に不必要なものはないのでどこで線引きしているのかハッキリしない。どうしても休めないあるいは在宅勤務ができるかできないかで分けているような感じである。
日本が西洋化した明治時代に、日本の知識層は英語の和訳に大いに知恵を絞った。中国の故事から新たに2文字熟語を作ったのだ。経済や競争や文明という言葉はその時代に編み出された。改めてグローバル化が進んでいる今の時代は、再度明治にやった新しい2文字熟語を創世する努力が必要ではなかろうか。

2020年12月27日 (日)

ファクトチェック: コロナは11月以降に消滅説は大ハズレ

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9月下旬に、ネット上に女性セブンの記事の一部が掲載されていた。内容は、「日本のコロナは11月以降に消滅、第3波も来ない」というもので、京都大学の某教授による新説である。丁度新型コロナウイルの第2波が収まって感染者が少なめに推移していた時期のことである。慶はこのニュースをみて、「眉唾もの」だと直感したし、マスコミもこれに食いつくことはなく、淡々と報道していた。結果はご存じのとおりだ。見事な第3波に見舞われ、今は毎日死者が出ている。結果から言えば、「フェイク学説」だった訳だ。
しかし、これは論文として受理された説を紹介しているのだ。しかも、独自に抗体保有率について調査した結果まで示されている。一般の人からすれば、2大帝国大学の一角を担う京都大学のウイルス専門家が、論文で公表した内容を詳述しているので、普通は信じてしまう。しかし、結果は大嘘。このギャップを誰がどう評価しているのか、さっぱり分からない。いや、提示された新しいデータは一体なんだったのだろうか。いずれにしても、科学の名前で嘘を拡散させることは非常に悪質なので、ここに再掲することで、学者はちゃんと徹底追求して欲しいし、我々もネット上にあふれる情報の取捨選択の必要性を改めて認識しておきたいものだ。

 

「日本のコロナは11月以降に消滅、第3波も来ない」説の根拠
2020年9月28日 16時5分
女性セブン2020年10月8日号より

日本人はすでに新型コロナウイルスを克服した──。京都大学大学院特定教授の上久保靖彦さんが、吉備国際大学教授の高橋淳さんと3月に発表した、新型コロナウイルスに関する論文が、話題となっている。その内容を要約するとこうなる。

「すでに多くの日本人は免疫を獲得しているので、新型コロナウイルスを恐れる必要はない」
「日本人は新型コロナを克服した説」の最大のポイントは「集団免疫の獲得」である。ウイルスに感染すると、体内の免疫システムが働いて「抗体」ができ、その後、同じウイルスに感染しにくくなったり、重症化を防いだりする。そうした抗体を持つ人が人口の50~70%を占めるとウイルスが人から人へ移動できなくなり、やがて流行が終息する。それが集団免疫だ。
 日本は各国と比べて新型コロナの感染者、重症者、死者が極めて少ない。「日本の奇跡」──世界からそう呼ばれる背景に集団免疫があると指摘するのが、感染症・免疫の専門家でもある前出の上久保さんだ。
「新型コロナは最初に中国で弱毒のS型が発生し、その後に弱毒のK型、強毒のG型の順に変異しました。中国人観光客の入国によって昨年12月にS型が日本に上陸し、今年1月中旬にはK型がやって来た。しかも日本は3月8日まで中国からの渡航を制限しなかったため約184万人の中国人観光客が来日し、S型とK型が日本中に広がりました。それにより、日本人は知らない間に集団免疫を獲得したのです
 弱毒のS型とK型にセットで罹ることにより、その後に流入した強毒のG型の免疫になった──という理屈である。一方、2月初頭から中国人の渡航を厳しく制限した欧米では、K型が充分に広まらなかった。
「そのため、中国・上海で変異した強毒性のG型が欧米に流入した際に防御できず、同地で重症者が激増しました。対する日本は集団免疫ができていたため、G型が流入しても被害が少なかった。私たちの試算では現在、日本人の85%以上が免疫を持っています」(上久保さん・以下同)
「上久保理論」を後押しするのが、免疫を獲得したことを示す「IgG抗体」を保有する人たちだ。
「私たちの共同研究チームが10~80代のボランティア約370人の抗体検査をしたところ、全員がIgG抗体を持っていました。ちなみにIgG抗体を持つ人でも、喉にたまたまウイルスがいればPCR検査で陽性になりますが、免疫があるため症状はほとんど出ません。最近目立つようになった無症状の感染者は、そうしたケースであると考えられます」
 この秋以降、新型コロナとインフルエンザの「ダブル流行」を心配する声もある。上久保さんが説明する。
「インフルエンザに感染したら、コロナウイルスには感染しません。逆もまたしかりで、この逆相関関係を『ウイルス干渉』と呼びます。実際、昨年末に新型コロナが流入してから、インフルエンザの流行はストップしました。
 しかも、人間の細胞にくっついて影響を与えるウイルスの突起(スパイク)の変異可能な数は最大12~14回で、頻度は月1回ほど。新型コロナのS型が発生したのは昨年12月なので、早ければ11月にも最後の変異を終えて、普通のコロナウイルスに戻るとみられます。それはコロナウイルスの原則的なメカニズムと考えられることなのです。新型インフルエンザが流行しない場合は、新型コロナが11月以降に消滅して、第3波が到来することはないでしょう
 新型コロナは打ち止め間近だというのだ。
(中略)
 最近は時短営業の終了やイベント制限緩和が進み、人の動きが活発化することを懸念する声もあるが、上久保さんは「ウイルスとの共存が必要」と指摘する。
「何度も新型コロナに感染すると、免疫機能が強化される『ブースター効果』を得られます。抗体は時間とともに減少するので、一度感染しても隔離状態でいると免疫が薄れ、逆効果になります。高齢者や持病を持つなどリスクの高い人との接触には注意しつつ、普通の経済活動を再開することが、社会にとっても個人にとっても有益です
 新型コロナウイルスを正しく理解すれば、恐ろしくないのだ。

2019年11月 9日 (土)

Propose a PDSK cycle that is neither PDCA nor PDSA!

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When it comes to reforms in working styles and the like, there are times when the upper manager of our company has dropped a textbook-like organization management technique, such as "the thorough implementation of the PDCA cycle," which has been heard by management consultants or something. The PDCA cycle was proposed by Walter A. Shewhart, who built quality control, and W. Edwards Deming et al. For this reason it is also called Shewhart Cycle or Deming Wheel.

 

Plan (Plan): Create a business plan based on past performance and future forecasts

Do (Execution / Execution): Work in accordance with the plan

Check (check and evaluation): check whether the implementation of the work is in line with the plan

Act (treatment / improvement): examine the part where implementation is not in line with the plan and take action

 

The point is that it is the basic concept of quality control in factory, but this is interpreted to extend the business style in the social organization. The principle of action is expressed by four simple verbs used daily, and it is a very simple logic that repeats this. However, not only me, many Japanese can not make sense even if they look at this. In particular, we vague the difference between Do and Act. The Plan, Do, Check, Do (PDCD cycles) are still easier to understand.

 

In fact, in the later years, the inventor should not stop Check in PDCA simply as "checking and evaluation", but it is necessary to deeply consider, reflect, learn (Study), share, and joint the next Act (action · · · Can lead to improvement). If so, it will be PDSA, but the relationship and division of Do and Act are still vague.

 

In the first place, at the Do stage, it is necessary to check whether the plan is in agreement while monitoring the progress. Therefore, check alone is not enough. In that sense, it is good to replace the word here with See (which collects the situation and simultaneously monitors it). On the other hand, in order to connect to the next plan P, it is necessary to consider, reflect on, and specifically improve the results of these series of work. Only learning is not enough. It is impossible to replace these sophisticated process with short English verbs? It is no good express as Act. If it “improves”, however, this does not include discussion and reflection. There is also “a step-up” in the sense of aiming at a higher level, but I can not see the concrete improvement process. In terms of “endeavor”, that do not include improvement and consideration, just means hard work toward the goal. Evaluation results should not be retained at the individual level, and of course it can not be linked to the next P unless it is put into practice after being made common to the entire organization, as well as belonging departments. Since these difficult expressions are impossible in English, I think that it good verb in Japanese as “KAIZEN“ here. That is, “PDSK cycles” of Plan (P), Do (D), See (S), and Kaizen (K), though to be appropriate.

 

Plan (Plan): Create a business plan based on past performance and future forecasts

Do (Execution / Execution): Work in accordance with the plan

See (monitoring / monitoring): grasp and monitor whether the work execution is in line with the plan

Kaizen (Improvement): Verification and reflection on the part where implementation is not in line with the plan, sharing throughout the organization, and establishing concrete and rational measures.

However, both PDCA cycle and PDSK cycle proposed here by me, this is the story of the theory world, and if you repeat this on a daily basis, you will never get the speed in works. Even if the theory or process is correct, the result does not always come close to the goal. The PDCA cycle can exist as a notion that "if you act this way you will achieve good results," but it must not be in line with the nature of humans. People constantly make minor adjustments while surfing every day. This concept is called as "adaptive management". Try it first, and if it doesn't work, fix it each time. “Adaptive management” is, simply speaking, "hit and run". However, if it is possible to put in a small but somewhat sophisticated P and K in this adaptive management, it is possible to rush toward the goal quickly. In modern business, this must be the case.

 

November 9, 2019, Yoshihiko IZUMIYA

PDCAでもPDSAでもない、PDSKサイクルを提案する!

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働き方改革とか声高に言われるようになると、会社の上層部や人事部が経営あるいは労務コンサルタントか何かに聞きかじってきた「PDCAサイクルの徹底」などと言った教科書的な組織運営を掲げてくることがある。このPDCAサイクルというのは、品質管理を構築したウォルター・シューハート(Walter A. Shewhart)、エドワーズ・デミング(W. Edwards Deming)らが提唱した。このため、シューハート・サイクル(Shewhart Cycle)またはデミング・ホイール(Deming Wheel)とも呼ばれるそうだ。

Plan(計画):従来の実績や将来の予測などをもとにして業務計画を作成する
Do(実施・実行):計画に沿って業務を行う
Check(点検・評価):業務の実施が計画に沿っているかどうかを確認する
Act(処置・改善):実施が計画に沿っていない部分を調べて処置をする

要は品質管理の概念なのであるが、これが組織における業務運営まで拡大解釈されている訳である。行動原理を日常用いる動詞4語で表して、これを繰り返すという、実に単純明快な論理である。しかし、慶に限らず、多くの日本人がこれを眺めてもピンと来ない。特に途中のDoと一番最後のActの違いが分からない。Plan, Do, Check, DoのPDCD反復の方がまだ理解しやすい。

実は考案者も晩年、『PDCAにおけるCheckを単なる「点検・評価」に終わらせてしまってはならない、深く考察し、反省し、学び(Study)、共有する事こそが、次のAct(処置・改善)に繋がる』と訴えていた。そうなると、PDSAとなるが、これでもDoとActの関係・分担が曖昧である。

そもそもDOの段階において、進捗状況を監視(モニタリング)しながら計画と合っているか点検をしなければならない。従って、checkだけでは不十分である。そういった意味で、ここをSee(状況を収集しながら同時に監視もする)という単語に置き換えたが良い。一方、次の計画Pに繋げるためには、それら一連の作業の結果を考察し、反省し、具体的に改善することが必要だ。学ぶだけでは不十分である。この考察、反省、具体的改善の一連の複雑な過程を短い動詞に置き換えることは不可能ではないか。少なくともActではダメである。改善するというのであれば、improveである。しかし、ここには考察と反省が含まれない。一段上を目指すという意味ではstep-up、というのもあるが、具体的な改善の過程が見えない。endeavorというのはゴールに向けて頑張るという意味で、精巧な改善策を含まない。評価結果を個人レベルで留めてはならず、所属部門はもちろんのこと、組織全体の共有財産とした後、実践しないと次のPへ繋がらない。これらの難しい表現は英語では無理なので、ここで慶はKAIZENという日本語を入れるべきと考える。すなわち、Plan (P), Do (D), See (S), Kaizen (K)の「PDSKサイクル」である。

Plan(計画):従来の実績や将来の予測などをもとにして業務計画を作成する
Do(実施・実行):計画に沿って業務を行う
See(把握・監視):業務の実施が計画に沿っているかどうかを把握・監視する
Kaizen(改善):実施が計画に沿っていない部分を検証・反省、組織全体で共有し、具体的かつ合理的な対応策を確立する。

しかし、実はPDCAサイクルだろうが、慶がここで提案したPDSKサイクルだろうが、これは理論の世界の話であって、これを日常繰り返していると絶対にスピードが出ないし、本当にゴールに向かっているのか分からなくなるに違いないと思う。理論や過程が正しくとも、結果が目標に近づいているとは限らない。PDCAサイクルは、「このように行動すれば成果が上がる」という工業的・理論的概念として存在できるが、人間の自然な性質には一致しないだろう。人は常に行動しながら微修正を施して日々をサーフィンしている。これは日本語で「順応的管理Adaptive Management 」と呼ばれる概念だ。まずやってみて、うまく行かなかったら都度都度修正する。上手に表現すれば順応的管理だが、いわゆる「行き当たりばったり」である。しかし、この順応的管理に、小さいながらもある程度精巧なPとKで挟み込むことができれば、実にスピーディーにゴールに向かって突進できる。現代ビジネスのように、将来予測が難しい、不確定要素が大きい場合は、むしろこの方が合っているに違いない。

2019年11月9日 泉水谷慶彦

2019年5月 1日 (水)

漢民族以外で唯一漢字を使い続ける不思議な日本人

漢字というのは、英語でChinese characterと呼ばれている。直訳すれば中国文字である。日本語の漢字は中国古代王朝の「漢」時代に完成した文字という意味だが、どっちにしても中国文字ということだ。要するに中国文字という以上は、中国でしか使われていない、というのが大原則である。もともと中国と接し、その影響を強く受けて来たベトナム、台湾、朝鮮半島も漢字を使用していたが、台湾以外はもはや漢字使用をほとんど止めている。あの小中華として、中国べったりの朝鮮半島でさえ、今は独立国家としてアピールするためにハングルばかりだ(ハングル使用が加速したのは日本統治時代なのだ)。今の韓国人は漢字を読めない人の方が多い。
そうなると、漢民族以外で日常的に漢字を用いているのは、もはや日本人だけ、というのが実態だ。その日本では、これだけ中国への嫌悪感が高まっているのに、漢字使用を止めようという運動は、右翼からでさえ一切起きていない。もはや漢字は日本語の主体であり、ひらがなとカタカナの併用のみでは意思表示できないほど、日本文化と同化している。中国人が日本に来てビックリするのは、街中に漢字があふれかえっていることである。そうすると、中国人的にはひらがなやカタカナが混じって少し変な表示ではあるが、だいたい意味が分かるのである。「身分証明書を提示する」は中国語で「出示您的身份證」であるが、出示=提示、身份證=身分証で、主語と述語が逆になっているだけなので、日本語のままでも中国人は分かる。そうすると、途端に日本への親近感が沸いてくるそうだ。そりゃそうだ、日本人が外国に出かけて、日本の看板をみたらホッとするのと同じ心理である。
これだけ日本人が漢字を使い続ける理由は簡単で、元々文字を知らないところに、中国からあらゆる文化や政体を移植する過程で、漢字表記しないといけない時代が来たからだ。律令体制が確立したのち、ひらがなという漢字を崩した和文字が現れたが、1文字や2文字で定まった意味を示す漢字の便利さをすべてひらがなで置き換えることはできないので、現在のように漢字と仮名の併用法に落ち着いている。韓国も元々漢字とハングルを併用していたのに、なぜに全部ハングルにしてしまったのか理解できない。漢字を混ぜた方が少ない文書量で済んで合理的なのに。

漢字は1文字で複数の意味を示すことができるし、辺やつくりの組み合わせには一定の法則性もあり、意思疎通を行う上で合理性の高い文字である。最近になってその有用性が見直しされている程である。日本人が漢字使用を止めなかったのは、いきなり漢字使用を強制されただけでなく、その合理性に共感したからに違いない。

2017年9月24日 (日)

馬脚を現すこと再び

7月に豊田議員のことをこのブログでも書いていたが、この3ヶ月間、治療と称してずっと雲隠れ状態。しかし、急転直下衆議院選挙が始まるとの空気になった瞬間、突然テレビや支持者の前に豊田議員が現れてきた。
Mr.サンデーと記者会見を見ていたが、世間を騒がせたと謝りつつ、肝心な部分は他人への責任転嫁、都合の悪いことは嘘で塗り固めたりすっとぼけ、泣いてごまかして同情票を買う。最低の会見だった。簡単に言えば、「ほぼ佐村河内の再来、いや、それ以下」という感じだった。
形式上は東大法学部からエリート官僚という出世コースを駆け上がったのかもしれないが、正直基本骨格は自己中心と万能感で凝り固まった、全て自己正当化から入るタチの悪いもので、人間的にはガラクタのような造りだ。だいたい被害者の秘書への憎悪の念はまだまだくすぶっており、週刊新潮の記者には敵意むき出し、一方で選挙には出るとのこと。こういうのを世間では厚顔無恥という。
Toyodagiin

3ヶ月間雲隠れしながら、一生懸命に「復帰シナリオ」を練りに練って、タイミングを見計らっていたのだろう。その集大成のテレビ出演、記者会見、議員活動復帰と畳み掛けたものの、結局は厚顔無恥さをさらけ出したばかりで、完全に裏目に出た。佐村河内同様、嘘つきは誰にも信用されない。まして政治家というのは、信頼性と言葉が重要だ。さっさと消えていくだけの運命である。あとは選挙で、この「厚顔無恥」豊田議員と共産党候補とどちらの得票率が低いか競争することになるだろう。
どこかの本で書いてあったが、刑務所への出入りを繰り返す累犯受刑者には「いい子」だった者が多い。おばあちゃんにかわいがられていたとか、自分の感情を素直に出さず、幼少期から親の期待する役割を演じていたとか、そういう人間が含まれるという。そうしたストイックで閉ざされた幼少期から、相手のある大人の世界に入ってきた時にフリクションを吸収できず、積もり積もった否定的感情が「犯罪」という形で爆発するらしい。
おそらく佐村河内も豊田議員も、未だに「なぜ自分が悪いんだ、世間がバカだ」ぐらいにしか思っていない。こうした人はどんな批判に晒されても、己を変えることはなく、嘘と自己正当化だけで人生を突き進むだけのことである。
それにしても、東大法というブランドに泥を塗ったという意味でこの豊田議員の言動は深刻で、選挙で落ちるだけでなく、東大OBから村八分を食らうことは間違いないのではないか。舛添でも相当ひどいなと思ったが、レベルが全然下で東大ブランドを汚している。エリートが落ちぶれても、使い勝手が悪くて、それを拾ってくれるところはない。東大ブランドから村八分を食らって嘘つき、自己正当化だけが生命線なら、コンビニのレジのバイトもできまい。

2017年5月25日 (木)

東大卒と美人とはちやほやされるもの

学歴と美貌について考えてみる。学歴は多少天性の能力が必要だが、概ね努力で勝ち取ることが可能だ。その象徴的な存在は東大卒である。ただただ東大卒を追いかけるだけでドキュメンタリー(バラエティー?)番組が成立するほどである。東大卒がどれほど素晴らしいのか世の中の平民は良く分からずただただ頭が良くてエライの連発だろう。
もちろん、国内の大学でも東大と京大は別格だが、東大卒をかき集めた国鉄は、基本となる接客サービスができず、経営もいい加減で最終的に37兆円もの負債を溜め込んで、最後は分割民営化させられたのは事実だ。そんなに優秀な人材をゾロゾロ集めて37兆円も赤字をため込むとは最悪だ。
その東大→国鉄経由で大臣になった人が、先日テレビカメラの前で「出て行け、もうお前とは話をしない」と絶叫していた。また同じく東大卒で大蔵省に入ったのち、政治家になった某法務大臣も、これが東大卒かと目を疑うような不規則発言の繰り返し。要するに、東大卒だから万能というのは幻想ということだ。特に東大へ行くようなエリートは典型的な優等生タイプで、自己万能感が強くて周りもちやほやするのでお高くとまっており、民間に行けば煮ても焼いても食えないと言われる。最近はだいぶマシになったが、天狗と公家をハイブリッドさせたような立ち振る舞いである。そう言った意味では、官僚組織や国会議員へ人材を輩出するにはうってつけの大学だろう。頭が良いことは尊敬に値するものの、人の上に立ってリーダーとなれるとは限らない。そこを勘違いすると、某大臣みたいになるのだろう。
次は美人。美貌は基本的に生まれつき定まる。最近は美容整形技術の進歩で美貌も努力なしで「金で買える」時代ではあるが、日本では整形=養殖モノへの嫌悪感が根強いので、天然美人は未だにちやほや。最近フジテレビにモデル級の美人女子アナが採用されたようで、傾いてネタのない同社にとっては、これで押しまくるしかないのではないか?東大卒がお高くとまっているように、これまた美人も大概お高くとまっていることが多い。特に地方出身の美人でそれが顕著だ。しかし、地方で美人としてちやほやされても、東京や大阪に来ると上には上がおり、いきなり鼻をぼっきりと折られてしまう。そこで平静さを取り戻して普通の振る舞いに収まれば良いのだが、プライドが許さないと次の一手として、わざとブスの友達を引き連れて、自分が集団の中で引き立つように振る舞うのが居たりして嫌になる。
結局東大卒も美人も周りがちやほやするから天狗になるのであって、別に学歴や容姿にとらわれずに是々非々でやっていけば、そういうお高くとまる人材は出てこないのである。しかし、日本人の学歴(出自)と容姿へのこだわりはほとんどビョーキに近いので、いつの時代も東大卒と美人はちやほやもてなされ、そしてちょっとでも期待値以上の実力が無ければ、すぐにたたき落とされて大騒ぎの繰り返しになるのだ。だから慶は、目の前に東大卒や美人がいても、全然興味がないのである。

2017年1月16日 (月)

受験は経験することに意義がある

まるでオリンピックに望むアスリートの心構えを示したようなタイトルだが、本当にそう思うことが多い。この土曜日と日曜日の2日間、大学入試センター試験が行われた。毎年一年で最も寒いこの時期に、受験生は小中高の12年間の勉強の成果を試されることになる。暑い寒いは学力に影響しないだろうが、極寒の時期のインフルエンザや感染性胃腸炎との戦いとも重なり、合格発表が集中する3月上旬までは気が抜けない日々が続く。
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慶も国公立大学志望だったので、高校2年生の夏ぐらいから受験モード。中学まで特に成績が良い部類ではなかったので、この高校2年の夏からギアを3つぐらい入れて頑張ったものだ。慶の時代は受験戦争がひどかった時代だ。今なら国公立がダメでも、えり好みしなければ私立のどこかに入れると思うが、慶の時代は私立大学もいまほど多くはなかったので、下手をすると4年生の大学全滅ということさえ普通だった。
今思うとよくできた高校生だったなと思うが、以下の点を肝に銘じて勉強していた。
○学校の通常授業と受験問題とは別物。学校の成績がいくら良くても受験でしくじることは大いにある
○過去問レベルが解けなければ、受験しても良い結果は出ない
○英語と数学で点数の差がつくから、この2科目から逃げては行かない
○受験勉強しても社会に役に立たないので、あくまで大学に入るための通過点と割り切る

ということで、学校の授業はそっちのけで、過去問と向き合った。しかも、自分で分かるまで自分で考え、教師には質問しなかった。なぜ教師に質問しなかったかと言えば、担任が私立大出身だったからだ。友人には、「私立大出身者の教師に教えて貰っても、国公立大には入れない」と言い放ち、放課後の補習授業は欠席してさっさと自宅に帰っていた。なんとも生意気な高校生だったものだ。教師からも、「お前は指導しない、勝手にしろ」と言い放たれたものだ。
結果はこちらのもくろみ通り志望大学に入り、普通に就職でき、何とか普通のサラリーマン生活をやっている。それで過酷な受験で勉強した内容は、社会で全く役に立たない。せめて何が役に立っているかと言えば、地理と歴史ぐらいではなかろうか。受験とは、ある統一基準に基づく競争を経て、個人の能力を数字化されるプロセスを示しているのである。人間をテストの成績だけで評価できるかと言えば、そんなことはない。無理である。しかし、人の人生のどこかでは、必ず競争に晒される。そこから逃げてばかりでは、自分が思うような人生設計はどんどん狭まるだけである(畑耕す自給自足生活だけ)。そういう思考プロセスを若いときに経験することが、実は大事なのではないか。結果は後から付いてくるものである。
今日は自己採点をやって、できた人、できなかった人、それぞれ悲喜こもごもだと思う。できなかった人は、ここから失点回復能力という、実社会で最も必要とされる能力を磨くことになろう。人生は長い長いマラソン。受験の成否は、あくまでスタート10km地点での順位を決める程度だ。結果に一喜一憂することなく、とにかく前を向いて最善の結果をたぐり寄せて欲しい。

2016年12月24日 (土)

君は巨大彗星を見たか?

先日地球と月の間がとても近くなり、夜空の月が普段よりも巨大に見える「スーパームーン」が発生した。慶は月など見飽きて、「あっ、そう~」という感じである。普段の生活で、夜空を見上げる人は一体どの程度いるのだろうか?だいたい都市部に住んでいる人にとっては、夜空で見えるのは月がせいぜいで、肉眼でも視認できる火星や木星さえやっとこさ、北斗七星やオリオン座など、見えない人がほとんどだ。東京や大阪住まいだと、天ノ川さえ見ることもない。
天体の動きは航海をする古代人にとっては重要な情報であったが、スマホで自分が地球上のどこに居るのか分かる現代では、星座の位置関係などどうでもよい。慶も基本的にそういう素人の1人であるが、1度だけ巨大彗星の出現にワクワクしたことがある。
巨大彗星と言えば、ハレー彗星が有名だ。太陽系の周りを周回しており、75年に1度だけ地球に接近して視認できる。過去の古文書に最も頻出する彗星であり、その出現は常に疫病や動乱の前触れとして忌み嫌われてきた。75年に1度だけの出現なので、ほとんどの人が一生に一度だけしかお目にかかれない。直近では1986年に出現したから、次は2061年だ。あと45年後、慶は絶対に死んでいる。1986年のハレー彗星であるが、正直全く見えなかった。地球から遠く、肉眼でほとんど分からなかったので、実際に見えないとほとんど話題にもならなかった。ということで、一生に一度しかお目にかかれない大彗星はこれでおしまいと思いきや、思わぬプレゼントがあった。1997年に現れた「ヘール・ボップ彗星」である。
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この彗星は直前までほとんど認識されなかった新彗星である。しかも地球から遠くを通るので肉眼では見えないかもと思いきや、予想外に核が大きく、1年ぐらい前から、「もしかしたら肉眼で良く見えるかもしれない」との報道に変わった。実際には年明けから夜空に人魂のような彗星が常時見える状態になった。「お~、彗星だ〜〜!」という感じで最初は感動したが、ほぼ毎日夜空に見えるので、そのうち飽きてくる。
そうしたなか、1997年3月30日の日曜日、慶はドライブに出た。漁村でイカ焼きやサザエの壺焼きを楽しんで自宅に帰ることに。その日は3月末ではあるが冬型の気圧配置で寒い一日だった。出かけた場所から山越えで自宅に帰る途中、トイレがないので山の山頂付近で立ちションをした。その時、夜空を見上げると、それまで小さく見えていたヘール・ボップ彗星がすごいことになっていた。
町中に住んでいるとタダの人魂なのだが、山奥で空が漆黒の闇の中でこの彗星を見ると、尾っぽがとてつもなく長く、まるでパイプのようにガス状に輝く尾を引きづっている。しかも、その尾の中が、時折「キラキラ」とまるで「スローモーションのLED照明」のごとく光っているのである。思わず「うわぁ~、すげぇ~~~~」と絶叫し、30分ぐらい彗星を眺めていて首が痛くなったほどだ。
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天体モノで、これを超える感動は未だにない。実際に、過去数千年間のどの彗星よりも長く出現していたそうだ。慶の短い人生で、これほどの巨大彗星を肉眼で見ることができたのは幸運であり、幸せである。

2014年3月26日 (水)

学校給食は相変わらずショボイ

ちょっと前に浜松市内の小学校で集団食中毒事件があった。その時、食中毒を引き起こしたと思われる時の2日間の給食の写真が出ていたが、それを眺めて思ったのは、「相変わらず給食はショボイなあ」ということである。
うちの育ち盛りの女子中学生も、学校から帰ると「今日も給食がショボかった」「あんなまずいの食べさせるとは信じられない」の繰り返しである。うちは決して裕福な家でもないし、母親が飛び抜けて料理がうまいわけでもない。中の下ぐらいなものだ。それでも学校給食はショボイと感じるのである。もちろん慶が小中学校の時も給食は粗食と感じていた。最近はましかなと思っていたが、写真をみると相変わらずのようだ。
Schoolmeal1

Schoolmeal2

パターンは決まっていて、「ごはんもしくはパン」「汁物」「おかず1品+α」「牛乳」である。メインのおかずも、小さい魚や鶏肉のカケラというのが多い。上の写真などはメインが「くぎ煮」である。何か可哀想だな。給食費が異なるし、自治体によって人件費も違うので一律ではないが、だいたいこんな感じである。自宅ではあり得ない品数の少なさと具材の貧相さ。これでも管理栄養士がちゃんと計算してやっているというから驚きだ。病院や刑務所の食事とあまり変わらない。それでも人はちゃんと生きていけるのだから、普段我々は飽食なのだろう。
しかし、こんなショボイ給食でも、学校で全員机を並べて食べると楽しいので不思議だ。集団心理というか、腹が減っている時に場の雰囲気を共有しながら何か胃袋に流し込むと、人間は何となくホッコリするのである。職場でもほぼ似たような空気である。フリーライダーのダメ社員でも、昼飯の時だけ饒舌である。なんだかんで言って飯の時が一番リラックスする。社内会議も飯を食いながらやりたいものだ。
私立学校では弁当中心で、中高一貫教育のところは食堂もある。別に給食センターなる公立の組織で一斉調理して、皆同じモノを食べなければならない理由はない。どうせ給食費として実費負担させられるのだから。日本の場合はやたらと集中調理をして、自治体内で兵站のような一斉配送システムを構築し、生徒に当番制で配膳をさせ、同じモノを同じだけ食べさせる。食べ残すとやたらと怒られる。どうも給食も教育活動の一環らしいが、これだとノロウイルスなどの食中毒リスクは高まるし、アレルギーを持った子供には危険きわまりないスタイルだ。いつになったら諸外国のようにビュッフェスタイルに持って行く時代になるのだろうか。生徒が何を食うかは自己責任、保護者の管轄範囲である。こういう戦時中の国民総動員令的発想の教育が公立学校で行われるから、金持ちは私立に流れてしまうのかもしれない。