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2016年6月14日 (火)

個人の意見の羅列はただのゴミ

「ネット民」なる言葉も出てくるほど、インターネットを通じた個人の情報発信力が年々勢いを増している。2ちゃんねるやブログやツイッターなどがその発信源であるが、最近はネットニュースなどの下に直接意見を書き込めるようにしてあって、ニュースのすぐ下にも、ブログへのレスのごときダラダラとした個人の意見が満載されている。
インターネットが登場するまで、個人の意見というのは投稿されたはがき、ファックス、電子メールの内容をアナウンサーが読み上げるというスタイルであった(今でもNHKの定番スタイル)。これだと寄せられた意見の一部を紹介するだけに留まるし、その過程でフィルターがかけられているので、過激な意見はオミットされる。現在は情報発信源に直接個人の意見がダイレクトにアップされる時代である。特にターゲットにされ易い芸能人は、誹謗中傷が飛び交ってブログなどが炎上することも度々である。
慶などは、一体個々の意見を全部見て何の役に立つのか疑問だらけなのだが、どうもネット社会を生きている今の若手世代にとって、この個人の意見は重要みたいだ。要するに、この書き込みの羅列を眺めて、世間の評判を察知しているのである。ホテルや飲食店の「クチコミ」情報を見るがごとく、すべての世の中の情報に対して、タグの代わりに個人の意見を羅列し、そこの「雰囲気」から情報に対する自己判断を決めているという訳だ。
これを従来のシュチエーションに例えて言えば、おばちゃんの立ち話を横で聞くことで世論を理解するようなものだ。ネットに書き込むのはかなり偏った意見を持った者ばかりである。そんな偏った意見をゴマンとみて世間を理解するなど危険きわまりない。おばちゃんの立ち話は確実に「情報のゴミ」であるから、ハッキリ言ってネットの書き込みなどもゴミの山に過ぎない。情報源を見て、まずは自分自身で判断するのが最初であって、いきなり情報のゴミにアクセスするのは間違い。
結局これが世界中に拡散しているから、何処の国でも過激な意見を持った右翼が政治家として台頭しているのではなかろうか。恐ろしい時代になってきた。

2014年4月 4日 (金)

相互扶助精神とナアナアは似て非なるもの

この入学、進学、就職時期になると、組織の結束力を高めるために、「人という字は、1 人では立てないから、もう1本で支え合っている姿を示してる。だから、自分のことだけでなく、他人を思いやる精神が重要」というありきたりの説法が日本各地で繰り広げられることだろう。慶も新入社員の歓迎会の二次会などで、部長などがベロベロに酔っぱらってこれをひたすら繰り返している姿を目撃したことがある。要するに、上司は何かと重責を担っているから、イザという時は全部俺が被害を被るんだ。だから普段からお前ら若い奴は、俺を慕って仕事をしろいう修正浪花節なのである。 人という象形文字は、人が大地に立っている姿を示しているから、決して複数人が支え合っているのを示している訳ではない。これは根拠がない説明である。また、自分が全責任を被るリスクがあるのだから、普段から俺を慕えというのは職務権限の乱用だ。なぜなら、その責任に応じて高い報酬が払われている。給与体系が同等でないのに、責任感を押し売りし、まるで自分が慈悲を与えているかのような論理を展開するのはおかしい。しかし、日本人ほど浪花節が好きな人種も珍しい。慶はこの浪花節型志向の人間は、人情を基本とする情操教育に主眼を置くのではなく、基本的にナアナア体質の人間であると見ている。では、ナアナアとは一体何なのか。 ナアナアとは、なれ合い体質で、問題が揉めた時に責任を曖昧にし、本質を全部水に流して妥協する体質のことだ。すなわち、どこまでも責任を追求しない体質のことである。最も分かり易い例は、交通事故を起して、トータルの賠償額を確定してそれぞれの責任比率を追求しようとした場合に、「まあまあどっちも悪いし、証明もなかなか大変だ、同じ日本人だから水に流そう」と示談に持ち込むようなものだ。ナアナアの人は、数字で白黒ハッキリさせることを恐ろしく嫌う。そうなると、責任が数字化されて、いつまでも記録として残るからだ。一瞬の危機をナアナアで切り抜けることが、以後の人生で責任追及を免れる最良の方策である。何ともひどい発想である。 相互扶助精神は、個人の犠牲を前提に、全体の幸福を目指すものである。これはとてもストイックである。慶の親も、寺の礼拝所が傷んできたので修理したいが、寺に蓄えがないから、檀家が何十万も寄付金を出させられると泣いていた。もうちょっとうまいやり方はないかと関係者の会合に顔を出したが、「昔からこの寺を檀家が何百年も守ってきたのだから、平和な時代に生きている俺らが皆で支えることができないようでは、先祖に示しが付かない」ということで、ゼニカネではないというノリだった。まさにこれは相互扶助精神に基づいたものである。 人と人の繋がりが希薄になると、この相互扶助精神を示しても、その効果を実感できにくい。コンビニやスーパーの寄付のところに小銭を入れても、本当に社会の役にやっているかどうかサッパリ分からない。分からないものに人は金を出さない生物だ。結局個人のことは個人でやって下さいというのがはびこり、都合の悪いことだけ他人に押しつけて水に流すナアナアがはびこっているのだと思う次第である。

2014年3月 7日 (金)

長渕剛と稲森和夫との「薩摩っ子対談」

ミュージシャン長渕剛さんが、精力的に津波と原発被災地を訪問して慰労している姿が印象に残る。ある時、JALの機内誌で、彼の生い立ちについて赤裸々に述べられた記事を見つけた。とても素晴らしい内容だったので、以下に原文のまま記します。



うちのオヤジは種子島の出身で無学だったものですから、体一つでのし上がらないとしょうがないと柔道を始め、島を出て警察官になったんですね。単身赴任で県内各地を転勤していたので、キャッチボールをしてもらった思い出はほとんどありませんが、1年に1回だけ、125ccのバイクで、おふくろの郷里の指宿温泉まで連れて行ってくれた。帰る頃には僕が寝てしまうものだから、柔道3段の黒帯で自分の体と僕と荷台を結んで、錦江湾の海沿いをずーっと走って鹿児島市内に向かうんですよ。その時のオヤジはとっても優しくて、宮ヶ浜で休憩しようと言って、浜辺で母の話をしてくれたり、タバコをくゆらせながら海の向こうを黙って見つめていたり。僕はそんなオヤジの強い背中を見て育ちました。
一方のお袋は、大根1本いくらって、家計簿に書き込む倹約家です。でもおやじが給料袋を持って帰ってくると、袋をバッと破って家計簿に額名を書きながら「出世しないものだから、腐っされおんじょ(おやじ)が!」と鹿児島弁で吐き捨てて、いつも大げんかになったんですよ。お袋は、夫婦げんかをした翌日にはおむすびを作って、「つよし行こうか」と、山の上にある水源地まで僕を連れて行ってくれました。切り株に腰掛けて夕暮れまでそこで過ごし、夕焼けを見ながら「昨日はごめんねぇ。父ちゃんと喧嘩してねぇ」と。で、いつも童謡を歌ってくれたんですね。男は強くなきゃいけないし、我慢しなきゃいけないし、優しくなきゃいけないというのは父から教わったし、悲しみとか慈悲の心というのは、母から学んだように思います。



JAL機内誌 。SKYWARD 2012年12月号より

2013年5月 6日 (月)

旅慣れない老夫婦

平日に地方都市をウロウロしていると、60代の老夫婦がオタオタしながら、名所へ行く道筋や、その土地の公共交通機関について良く尋ねられる。明らかに東京や大阪の都市部近郊の人である。退職して、やっと2人だけの時間がポッカリとできたので、前々から話していたように、旅行でも行こうという感じである。現役時代は毎日電車で通いながらアリのように働き、旅行と言えば、職場での日帰りか1泊旅行ぐらいという状態であったことだろう。そういった感じなので、どうみてもあまり旅慣れていないというか、遊びが下手のような感じである。とにかく、知らない土地は不安なので、確実に移動できる電車やバスなど公共交通機関を利用しようとしている。
しかし、田舎の公共交通機関など実質ガラクタである。「何だ、次の便まで1時間もあるぞ」「たった2駅でこんなに運賃が高いとは、東京では考えられない」「ガイドブックに出ている名所のくせに、どこにも案内が出ていない」「駅前なのに飯食うところがないぞ!」などなどブツブツ良いながらの旅行だ。そして、こういうつまらないトラブルが原因で「家でゆっくりしていた方が良かったのに」という投げやりな結論となり、夫婦喧嘩に陥っているケースもある。
まず田舎を効率的に楽しむには、レンタカーが絶対に基本である。電車やバスなど論外である。朝早い便と夕方の便しかない。田舎の電車やバスは、高校生の越境通学、年寄りの病院通いのためにやっているようなものである。とにかく昼間の移動は不便である。東京や大阪以外は徹底した車社会である。県庁所在地でさえ、車無しでは快適に目的地を回ることができない。これが大前提。田舎の駅前などただのシャッター通りだから、面白いはずがない。レンタカーなら、分散したスポットでも1日で巡れるし、地元の人が列を成して食べている隠れた名店を見つけることができる。車があってナンボの世界である。
たぶん現役の時から、ある程度友達や趣味があれば、退職後に夫婦で付け焼き刃的な旅行ということにはならないだろう。夫婦それぞれの人間関係の中で遊べば良いだけのことである。おしどり夫婦はそんなに多くはないから、夫婦で無理矢理知らない土地に旅行ということは少ない筈だ。団塊世代で慣れない夫婦旅行ということは、夫は会社人間、妻は専業主婦という組み合わせでなかったろうか。どっちにしても、旅行には慣れていないことには違いない。だから旅に出てトラブルになるのである。
慣れていないことをやっても、うまくは行かない。どうせ旅慣れておらずトラブルになるのなら、いっそこのこと外国まで行った方が良い。外国ならトラブルになっても諦めが付くし、何より刺激として思い出にはなろう。平々凡々としたサラリーマン生活が懐かしく感じるかもしれない。旅行の醍醐味は、ハプニングである。これを楽しむ心づもりで旅に出るべきだ。団体ツアーのように、目的地を淡々と巡るだけの旅行など、何にも面白くない。

2013年3月18日 (月)

桜開花が早いぞ

ここ3年ばかりは全国的に寒い冬が続いたが、今年に限ると、西日本は比較的暖かい冬だった。12月にドカンと寒くなったが、1月以降は緩やかな寒さで、降雪も微々たるものである。しかし東北北部から北海道は極寒の年となったみたいで、多くの死傷者が出た。あの雪かきや雪下ろしの映像をみて、なぜにこんなところにそこまでして住まなければいけないのか、いつも可哀想な気持ちになってくる。特に八甲田山系の標高約900mの地点にある「酸ヶ湯」は、毎年ダントツの積雪量で有名なところであるが、2月26日には気象庁の観測地点としては最高積雪の566cmを記録した。その映像を見たが、押しボタンの信号機が完全に雪で隠れて機能していなかった。13日には福岡で桜が開花したが、酸ヶ湯にはまだ積雪が4m70cmもある。
それにしても、桜が史上最速クラスで咲き始めた。この調子だと3月下旬には散り始める可能性が高い。今年の入学式は、散り始めで緑がかかった汚い桜になりそうである。 それにしても桜はきれいだ。あの満開の桜を見ると、完全に寒い冬が終り、春が来たと思い知らされて、気分が爽快になる。そうなると、花見でどうしても酒を飲んで騒ぎたくなるのである。それほどまでに、桜は美しい。日本の誇るべき在来種植物だ。しかし、なぜに桜はあんなにきれいなのか?
Sakura_sakura

慶も調べるまで気がつかなかったのだが、桜という植物は、先に花が咲き、後から葉っぱが出てくる。しかし、ほとんどの植物は葉が茂り、その後につぼみが出てきて、最後の最後に花が咲く。だから常に緑と花弁のコントラストが普通で、遠目には緑の中にポツポツと花が見える。花がやたらとでかいユリ、バラ、チューリップでも、根元には常に葉が茂っている。しかし、満開の桜には葉がない。すべて花で埋め尽くされているのである。だからきれいなのだ。
こういう植物は非常に珍しい。他は梅と桃ぐらいだ。だって、学校で習ったように、植物は葉っぱで光合成をして栄養を溜めてから花を咲かせ、結実する。しかし桜は冬の間は葉がないのに、いきなり花が出てくる。その栄養分はどこから来ているのかと言えば、前年の夏から秋にかけて、木の幹や根っこに蓄えた栄養分という貯金で花を咲かせているのである。実に我慢強い植物である。
しかし、ソメイヨシノというのは園芸品種で、学術的にはエドヒガンという桜と、オオシマザクラという桜の人工交配で生まれたハイブリッドだということらしい。江戸の染井村(現在の駒込)の植木屋が作出し、「吉野桜」で売り出した品種なので、ソメイヨシノ(染井吉野)なのである。エドヒガンという桜は、花が葉よりも先に出てくるが、基本的に花びらが小さい。一方、オオシマザクラは葉が先に出てくるが、花びらがとても大きい。そのハイブリッドなので、花が先に出て、しかも花びらが大きい。実に見事な組み合わせだ。誰が作出したか分からないが、名も無き植木職人の作品なのである。ただ人工的に交配させたものなので、同じものを種や苗から増やすことはできない。次の雑種になると、この特徴は失われる。1代限りの命なので、今全国に植えられているソメイヨシノはすべて接ぎ木で増やされたクローンなのである。
いつも何気なく眺めている桜が、実はハーフでクローンだった。意外な事実であるが、学校で教えてくれないので、ほとんどの人が知らない。クローンゆえに性質が全く同じなので、春前線に沿うように桜全線は北上するという、分かりやすい指標になっているのだ。

2012年12月15日 (土)

鶴瓶さんは凄いよな

滅多に観ないのに受信料だけはしっかりとられるNHKの番組で、唯一楽しく観ているのは「鶴瓶の家族に乾杯」である。この番組もえらく長寿で、少なくとも12年やっている。番組のコンセプトはシンプルで、鶴瓶が名も無き地方の都市をブラブラ歩き、出会った人々とウサ話をしたり、家に上がり込んだりして、人々との交流を深めるというものである。地方がメインなので、相手はじいさん、ばあさん、小学生、田舎くさい女子中学生、畑仕事にいそしむおばちゃん、何をして働いて居るか良く分からないブサイク独身男など様々だ。
この番組自体は企画も構成も何もなくて、とにかく鶴瓶のキャラクター頼りであり、カメラはその後ろをついて回るだけである。こういう番組が面白い訳はない筈なのだが、結果的に無茶苦茶面白く、また感動するのである。
これと似た番組でテレビ東京がやっている「田舎に泊ろう!」というのがある。しかし、こちらは低予算番組の極みで、売れないタレントを仕立てて、田舎に突撃で無銭飲食と宿泊を強要するという失礼極まりない番組だ。当然、売れないタレントなどハナから知らない田舎者は逃げ惑ったり迷惑そうな顔をして、番組自体に異常な緊張感が走っている。観ている方も、取材する側も気まずい、企画自体が破綻した最悪の番組である。日本海側や東北のようにコンサバティブな地域では、アカの他人を家に泊めるなど絶対あり得ない話なので、どうしても取材場所が限られていまう。
しかし、鶴瓶の場合は異なる。いくら台本もストーリーも演出もない番組とは言え、一応「今度鶴瓶の家族に乾杯の取材があります」ぐらいはアナウンスされている筈だ。それを差し引いても、鶴瓶と初めて出会った人は、一瞬戸惑いつつ、いつの間にか鶴瓶のペースに巻き込まれ、カメラが回っているのに、普段の自分を思いきりさらけ出す。そこから会話がどんどん進むのである。要するに鶴瓶さんのキャラが凄すぎるのである。誰と接しても、相手の懐にすっと入り込み、警戒心を解いて、すぐに友人になれるのである。なんと素晴らしい芸人さんなのか。
鶴瓶さんは、「芸人なんか、カメラの前でヘラヘラ笑っていればいいんや」というように、芸風が「自己をさらけ出す」というスタイルである。元々全裸騒動が多いキャラらしく、自分をすべてさらけ出すことで、相手の本音を引き出す技を有しているとも言える。実に自然で、恨めないキャラではないか。鶴瓶さんのおかげで、名も無き地方人が、自我の発見をして、明日の自分の小さい生き甲斐を自覚する。そういう、小さな幸せの積み重ねを日本中に植えていくことで、世知辛い今の世相を鶴瓶さんなりのやり方で直して行くのだから、この番組は文部省推奨番組として、今すぐに登録すべきである。

2012年11月15日 (木)

長い長い冬の始まり、誰だ季節を作ったのは

11月も中旬。この時期になると朝晩シンシンと冷え始め、厚手の上着は必須アイテムとなる。街角ではサクラ、イチョウ、カエデの落ち葉がドカドカ降り落ちて、木枯らしが舞ってそこらじゅう落ち葉だらけとなる。まさに冬本番が始まった!という感じである。これも季節の風物詩だから享受しなければならないが、これから4ヶ月も寒い冬が続くと考えると、思い切り憂鬱になる。なにせ朝が弱い性分なので、冬の寒さは非常にしんどい。
学生時代は本当に朝起きるのに苦労した。いや、一番苦労したのは母親だろう。基本的に子供が冬に自分から起き上がってきて、自ら朝飯を食べて出て行くことはまずない。母親のドヤし声で渋々起きてきて、半分気絶状態で飯を食って歯を磨き、家を出るころにようやく「目が覚め始める」というていたらくだ。中学生の時にボォーとしながら学校に行き、1限目の体育の授業で着替えようとしていたら、パジャマの上にシャツと学ランを着ていたなどという、恥ずかしい過去もある。
何故に季節が巡るかと言えば、地球が太陽系の公転面に対して垂直ではなく傾いて回転しているからだ。それもちょっとだけではなく、23度も傾いている。斜面で勾配が23度もあれば早々に上れない。そんなに傾いて上から横から太陽の光が当れば、それはクソ暑かったり、クソ寒くなるのも仕方ない。こればかりは宇宙が決めたことなので、我々人間が好き勝手にいじくる訳にも行かない。

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元が理系の人間なので、話しが理屈っぽい方向に流れてしまった。要するに季節は宇宙のリズムで確実に巡るのだから、我々が暑いの寒いの言っているのも、宇宙のリズムそのものだ。だから、こういう季節の変わり目こそ、地球儀を前に置いてみて、斜に構えて毎日せっせと回転している太陽系第三惑星である地球のことを頭に思い浮かべると、暑さ寒さでウダウダ言っている自分がちっぽけになり、最終的にあまり気にならなくなるのである。

2012年10月31日 (水)

最近目にしたこわいもの

この春から秋にかけて、慶がぎょっとしたものを記してみた。

○異臭沢庵
 羽田空港からボストンバックを持ったおばあさんが、電車に乗り込んできた。たぶん東京に住んでいる子供か親類に渡すため、手製の沢庵を満載しているのである。臭いですぐに分かる。しかし、京急車内は漬物の異臭が充満して、乗客がどんどん隣の列車に移動して居なくなった。慶はおばあさんの愛情に共感するので我慢し続けた。車内で薬品などの異臭がして乗客の気分が悪くなったというニュースは良く聞くが、漬物が臭すぎで乗客の気分が悪くなった場合は、やはりニュースになるのだろうか。

○真夜中に日傘を差して歩く女
 真っ暗な夜の町を、黒の日傘を差してテクテクと帰宅する30代ぐらいの女を見た。紫外線がどういうメカニズムで降り注ぐか分からないのか、単に安全を見込んでか、それとも習慣になって頭で分かっていても体が反応できないのか。パッと見た目は神経質そうな女だったので、全部折り込んでこうなっているのか。誰も恐くて言わないし、当人も気がつかないとなると、ずっとこの状態が続くのだろう。

○郵便ポストに手を突っ込んで郵便物を盗もうとするオッサン
 現金書留でも狙っているのだろうか。考えてみると、郵便は「絶対届く」という前提なので、配達通知はない。書留にすると余計な料金を取られるので、この時代から考えると、非常に危なっかしく、金もかかる制度である。

○おしぼりを放り投げる女
 喫茶店で遅れて来た同僚の分のおしぼりがないので追加をお願いしたら、ヤンキー風ウェイトレスから、「ホィ!」と遠くから投げつけられた。小さい店ではアルバイトレベルで社員教育を徹底するのは面倒なのは分かるが、もうちょっとどうにかならないものか。ヤンキーはどのみち夜型で日中は不機嫌なのだから、この雇用形態が妥当なのかどうか、そこまで遡って考え直して欲しい。

○バイクで犬を散歩させるオッサン
 このオッサンはよく見る。犬は散歩がしたくてたまらない、しかし自分は歩くのはおっくうだが、可愛い犬のことを考えると散歩はサボれない。その折衷案として、バイクで徐行しながらの散歩ということになるのだろう。しかし、見ていて犬がリードに引きずられて小走りし過ぎている。犬は外に行ければ嬉しいから決して文句は言わないが、風景的にあまりに可哀想だし、地球温暖化のことを考えると宜しくない。

2012年10月 1日 (月)

普通のお父さんの勇気に拍手

横浜市内を駆け抜ける「みなとみらい線」で、寝不足でふらついていた女子高生が線路に転落し、あわや列車に巻き込まれる!という一歩手前で九死に一生を得たという事件があった。詳細は既に報道されているが、通勤途上の会社員と現職警察官が線路に飛び込み、わずかな排水溝に女子高生を待避させ、間一髪で難を逃れたという。待避が完了したのは電車通過の2秒前、側溝に待避した3人と電車との最小距離は10cmというきわどい救出劇である。数秒の判断が生死を分けるきわどい状況で、正義感だけで行動したサラリーマンの判断に最大限の敬意を払いたい。
失敗すれば、せっかく積み上げてきた自分の人生、家族の幸せも失いかねない恐ろしいカケである。仮に成功しても何にも得るものはない。慶のように勇気に敬意を払う人は多いかもしれないが、だからと言ってメリットがある訳でもない。警察から感謝状を貰ってテレビに出ていて、両者とも使命感を達成して満足そうだったが、たぶん両お父さんの奥さんとしては、「頼むから余計なことはしないでくれ!」というのが本心であったろう。決して喜んではいまい。保身と正義感を天秤にかけて、一体どれだけの人間が後者を選ぶのだろうか。日本を支える普通のお父さんが、なぜ他人のために命をかけるという判断をできるのだろうか。色々考えると奥が深い。
そもそもの話しになるが、なぜに東京の地下鉄はホームと電車の分離が不十分なのだろうか。また、落ちてもホーム下の待避スペースが全然ない。これが問題である。新幹線をみれば分かるが、ホームの足下には十分なスペースがあり、かつほとんどの新幹線の駅でホームと列車の間に防護壁がある。あれなら電車が進入して居ない時に線路へと落ちるリスクはまずない。電車の本数や乗降客が一番多い地下鉄ほど、この転落防止を徹底すべきである。電車に轢かれれば絶対に死ぬわけだから、リスクの対処法としては、最悪人が落ちて死ぬという前提で安全を極限まで担保する設計がなされるべきである。東京というところは、意外と肝心なところが抜けていて唖然とすることがある。深い深い地下鉄に降りて行くエレベーターなども未整備のところが多い。
この事件を振り返った時に、逆にこの救出に失敗した事例を思い出した。2001年に山手線新大久保駅で泥酔した男性が線路に転落し、さらに、その男性を救助しようとして線路に飛び降りた日本人カメラマンと韓国人が電車にはねられ、3人とも死亡した。 結果的に犠牲者が増えてしまったが、人命救助のために命を投げ出したということで、この事件は日韓両国で大きく報道されることになった。いま、日本と韓国の間でぎくしゃくした関係ばかりが問題視されているが、こうした事件を思い出すだけでも、日韓関係の深さを考えさせられる。中国は昔からどうしようもないが、韓国には偏狭なナショナリズムを捨ててもらい、何とか未来志向で付き合えないものだろうか。

2012年9月14日 (金)

ブログ開始1年が経過

慶がブログを初めて1年が経過した。記事数を見ると200を超えている。ツイッターや日記風ブログなど短い文章なら毎日でもアップできようが、新聞の「読者の投稿」並の結構な文章とヘビーな内容をアップしている感じがする。数ヶ月で息切れするかなと思ったが、意外に続いている。さて、これからどうなるものやら。
この1年は日本の政治経済の漂流が最も激しい時期だったので、政治への不満や大企業の競争力のなさを嘆くようなネタが多くなっている。この傾向はもう少し続くかもしれないが、ブログの最も肝である、「心の内面」にについても順次記事をアップしていきたいなと思っているところである。

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