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2014年4月 4日 (金)

相互扶助精神とナアナアは似て非なるもの

この入学、進学、就職時期になると、組織の結束力を高めるために、「人という字は、1 人では立てないから、もう1本で支え合っている姿を示してる。だから、自分のことだけでなく、他人を思いやる精神が重要」というありきたりの説法が日本各地で繰り広げられることだろう。慶も新入社員の歓迎会の二次会などで、部長などがベロベロに酔っぱらってこれをひたすら繰り返している姿を目撃したことがある。要するに、上司は何かと重責を担っているから、イザという時は全部俺が被害を被るんだ。だから普段からお前ら若い奴は、俺を慕って仕事をしろいう修正浪花節なのである。 人という象形文字は、人が大地に立っている姿を示しているから、決して複数人が支え合っているのを示している訳ではない。これは根拠がない説明である。また、自分が全責任を被るリスクがあるのだから、普段から俺を慕えというのは職務権限の乱用だ。なぜなら、その責任に応じて高い報酬が払われている。給与体系が同等でないのに、責任感を押し売りし、まるで自分が慈悲を与えているかのような論理を展開するのはおかしい。しかし、日本人ほど浪花節が好きな人種も珍しい。慶はこの浪花節型志向の人間は、人情を基本とする情操教育に主眼を置くのではなく、基本的にナアナア体質の人間であると見ている。では、ナアナアとは一体何なのか。 ナアナアとは、なれ合い体質で、問題が揉めた時に責任を曖昧にし、本質を全部水に流して妥協する体質のことだ。すなわち、どこまでも責任を追求しない体質のことである。最も分かり易い例は、交通事故を起して、トータルの賠償額を確定してそれぞれの責任比率を追求しようとした場合に、「まあまあどっちも悪いし、証明もなかなか大変だ、同じ日本人だから水に流そう」と示談に持ち込むようなものだ。ナアナアの人は、数字で白黒ハッキリさせることを恐ろしく嫌う。そうなると、責任が数字化されて、いつまでも記録として残るからだ。一瞬の危機をナアナアで切り抜けることが、以後の人生で責任追及を免れる最良の方策である。何ともひどい発想である。 相互扶助精神は、個人の犠牲を前提に、全体の幸福を目指すものである。これはとてもストイックである。慶の親も、寺の礼拝所が傷んできたので修理したいが、寺に蓄えがないから、檀家が何十万も寄付金を出させられると泣いていた。もうちょっとうまいやり方はないかと関係者の会合に顔を出したが、「昔からこの寺を檀家が何百年も守ってきたのだから、平和な時代に生きている俺らが皆で支えることができないようでは、先祖に示しが付かない」ということで、ゼニカネではないというノリだった。まさにこれは相互扶助精神に基づいたものである。 人と人の繋がりが希薄になると、この相互扶助精神を示しても、その効果を実感できにくい。コンビニやスーパーの寄付のところに小銭を入れても、本当に社会の役にやっているかどうかサッパリ分からない。分からないものに人は金を出さない生物だ。結局個人のことは個人でやって下さいというのがはびこり、都合の悪いことだけ他人に押しつけて水に流すナアナアがはびこっているのだと思う次第である。

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