« サンマが高級魚になるのか | トップページ | ブログ記事一部閉鎖 »

2013年10月19日 (土)

「陰険京都人」の象徴、岩倉具視

公家は天皇を後ろに背負って常に武家を牽制し、いつまでも権威にしがみつき続ける。昔から武家はこれを嫌って、京都には任免される時だけ顔を出して、あとは完全シカトでやってきた。陰険な人間相手に振り回されるのは勘弁ということだ。普通の国なら、そういう煮ても焼いても食えないお荷物はさっさと抹殺して、自分が替わりに国の統率者になるものだ。なぜか日本は天皇とその取り巻きである公家を神々として崇め、決して血で染めることはせずに温存し続けた。僧侶も女子供でも、ダメだと思ったら抹殺した過激きわまりない信長でさえ、公家や天皇には一切暴力を使っていない。実に不思議なものである。
武家にとって、年貢の取り立て、鉱山の開発、貿易による利益を独占する過程で京都の世話になる必要はないから、無視しても何ら支障はない。「触らぬ神に祟りなし」でやってきたのである。
日本の歴史で公家はほとんど足蹴にされてきたが、幕末に権力が武士から朝廷に移る過程で、ある陰険公家が活躍していた。岩倉具視である。この岩倉具視は幕末の動乱期に謹慎処分を受けて自宅軟禁状態だったのだが、倒幕に執念を燃やす薩摩の大久保や西郷と通じ、謹慎を解かれて公家として復活。徳川家が土佐藩や福井藩などに諭されて、体制保持のためにとりあえず武士の権力を朝廷に返上する「大政奉還」をやった途端に表舞台にひょっこり現われ、天皇の代弁者のごとく諸藩にあれこれ命じ始める。それが最も顕著に出たのは1868年1月3日に丸一日かけて行われた小御所会議である。この会議は徳川政権の今後の処分と新政府の体制を論議する重要な会議であったが、ここで岩倉具視は倒幕に向けて終始会議をリードした。そのあまりの強引さに、大政奉還を建白して内乱や混乱を避けたという自負のある土佐藩の山内容堂は激怒し、「この会議に徳川慶喜当人を出席させず、一部の公家が幼い天皇を擁して権力を盗もうとしているだけで陰険である」と反論した。しかし、既に薩長に担がれ、権力は自分にあると踏んだ岩倉は、「天皇は不世出の英主であり、すべて天皇のご決断である。それを幼い天皇とは妄言である」と一蹴した。
最終的に、この会議で徳川家は一方的に朝敵とされ、700万石の所領没収が決定されたのである。その後はご存じのように、徳川家は瓦解の道を転がり落ち続けることになる。まさに、「盛者必衰」である。徳川家にとって、関ヶ原で圧勝したのに、結束力が強くて取りつぶしができなかった長州と薩摩は元々反徳川と見ていた。だから、徳川が傾けば、連中はいずれ出てくると用心していた。関ヶ原から260年近く経過して、徳川体制が弱まった狭間でこれらの雄藩が出てきた時は「やっぱりお前らか」と諦めが付いたろう。しかし、徳川時代ずっとその地位を安泰させてきた朝廷が、尊皇攘夷論が出てくると、都合良く反徳川で寝返ったのは頭に来たろう。しかし、これこそ、まさに陰険公家の面目発揮だったのである。信頼してはいけない。この気風は未だに京都に蔓延している。
逆にこういう煮ても焼いても食えない伝統的京都人は、同様に煮ても焼いても食えないロシア、北朝鮮、中国などとの交渉事には向いている。いま日本はしぶとい、陰険な外交力が欠けているから、いまこそこの公家社会の気風を背負った陰険外交官を、京都から中央政府に届け続けるべきではないだろうか(笑)。

« サンマが高級魚になるのか | トップページ | ブログ記事一部閉鎖 »

歴史・民族」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 「陰険京都人」の象徴、岩倉具視:

« サンマが高級魚になるのか | トップページ | ブログ記事一部閉鎖 »